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学生の時に、東京都清瀬市にあるハンセン病療養所に社会見学をしたのを思い出しました。現在は治る感染症ですが、当時の患者さんの事を思うと、心が痛みます。
映画「砂の器」に負けずとも劣らぬ渾身のリポートでしたね!来年、出雲の旅を計画中です
ありがとうございます。撮影と編集は大変だったでしょう。長島愛生園を訪れ、入居者を偲びます。
入所したら、お骨すら故郷に帰れなかった患者達、安らかに眠ってください。
音楽きいたら色々思い出して泣けるんよ……
55年くらい前、中学の保健体育の授業で、先生が施設に見学に行く話があったけど、ハンセン病の事は、潜伏期間が10年以上ということぐらいしか知らなくて、結局、感染が怖かったので行かなかったと話してくれました。本当に知らないという事は恐ろしいことです。
見てて悲しくなります
1:49 瀬戸内の風景ですが、恐らく岡山県倉敷市下津井からの撮影だと思います。左中央に見える砂浜のあるのが長島です。療養所がある島の名前と同じなのは偶然なのか意図してなのか分かりません。
情報、ありがとうございます! いやあああ、おっしゃる通り、確かに下津井から長島を見た風景ですね。当時の撮影隊の長島間違いなのか、意図的に風景的に監督のイメージに合っていたからなのか不明ですが、Googlemapで確認できました。もやもやしていたのがすっきりしました。方角から見て恐らく鷲羽山ハイランドの高い台から撮影したのかもしれませんね。あの公園、1971年開園となっているので、ちょうど砂の器を撮影していた時期と重なります。機会があったら訪問してみます!
コロナといい、人間はこうゆうことの繰り返し
「小島の春」では戦前の長島愛生園が動画として記録されていますね。貴重な映像だと思います。
コメントありがとうございます。この映画がRUclipsにアップされていたので観ることができました。一部ですが愛生園の風景が映し出されていました。桟橋の情景は複雑な思いが頭をよぎりました。
昨年公開された「かづゑ的」というドキュメンタリー映画の主人公・かづゑさんも、この収容桟橋から愛生園に渡ったそうです。現代では、「小島の春」はハンセン病患者の強制隔離を推し進めたという負の側面が多く語られていますが、小川正子が中四国で検診を始めた昭和10年頃は、多くの患者が路上生活を送っているような状態で、感染拡大の心配からも専門的な施設への隔離と治療が必要と言われていた時代でした。映画と違い、手記として書かれた「小川の春」は、医師や警察官の患者に対する当時の向き合い方がしっかり書かれており、一般社会の中にハンセン病患者がいた頃の状況を知ることができます。また「差別者のボクに捧げる!」という1978年の三宅一志のルポも、大島青松園で生活する当時の元患者たちがいかにしてここにたどり着いたかなど、患者側からみた当時の状況が掲載されています。高群逸枝の「娘巡礼記」も大正期の四国遍路記を通して、四国をさまようハンセン病患者の様子が描かれていて、当時の人々の患者に対するリアルな状況を知ることができます。
無知であることの恐ろしさを感じる😢
現代のコロナ騒動、進化してるのかなぁ?
色々な面で、未だに偏見は、無くならない!心の狭さなのだろうか?
人間の本質
罪深いのは、収容を決めた時点で伝染の可能性がないことが医学的にわかっていたことです。初代所長はそれを承知で国民の不安を利用して収容を先頭に立って進めたのです。砂の器はそれらを明らかして公開するべきでうやむやにして改変すべきではありません。
学生の時に、東京都清瀬市にあるハンセン病療養所に社会見学をしたのを思い出しました。現在は治る感染症ですが、当時の患者さんの事を思うと、心が痛みます。
映画「砂の器」に負けずとも劣らぬ渾身のリポートでしたね!
来年、出雲の旅を計画中です
ありがとうございます。
撮影と編集は大変だったでしょう。
長島愛生園を訪れ、入居者を偲びます。
入所したら、お骨すら故郷に帰れなかった患者達、安らかに眠ってください。
音楽きいたら色々思い出して泣けるんよ……
55年くらい前、中学の保健体育の授業で、先生が施設に見学に行く話があったけど、ハンセン病の事は、潜伏期間が10年以上ということぐらいしか知らなくて、結局、感染が怖かったので行かなかったと話してくれました。本当に知らないという事は恐ろしいことです。
見てて悲しくなります
1:49 瀬戸内の風景ですが、恐らく岡山県倉敷市下津井からの撮影だと思います。左中央に見える砂浜のあるのが長島です。療養所がある島の名前と同じなのは偶然なのか意図してなのか分かりません。
情報、ありがとうございます! いやあああ、おっしゃる通り、確かに下津井から長島を見た風景ですね。当時の撮影隊の長島間違いなのか、意図的に風景的に監督のイメージに合っていたからなのか不明ですが、Googlemapで確認できました。もやもやしていたのがすっきりしました。方角から見て恐らく鷲羽山ハイランドの高い台から撮影したのかもしれませんね。あの公園、1971年開園となっているので、ちょうど砂の器を撮影していた時期と重なります。機会があったら訪問してみます!
コロナといい、人間はこうゆうことの繰り返し
「小島の春」では戦前の長島愛生園が動画として記録されていますね。
貴重な映像だと思います。
コメントありがとうございます。この映画がRUclipsにアップされていたので観ることができました。一部ですが愛生園の風景が映し出されていました。桟橋の情景は複雑な思いが頭をよぎりました。
昨年公開された「かづゑ的」というドキュメンタリー映画の主人公・かづゑさんも、この収容桟橋から愛生園に渡ったそうです。現代では、「小島の春」はハンセン病患者の強制隔離を推し進めたという負の側面が多く語られていますが、小川正子が中四国で検診を始めた昭和10年頃は、多くの患者が路上生活を送っているような状態で、感染拡大の心配からも専門的な施設への隔離と治療が必要と言われていた時代でした。映画と違い、手記として書かれた「小川の春」は、医師や警察官の患者に対する当時の向き合い方がしっかり書かれており、一般社会の中にハンセン病患者がいた頃の状況を知ることができます。また「差別者のボクに捧げる!」という1978年の三宅一志のルポも、大島青松園で生活する当時の元患者たちがいかにしてここにたどり着いたかなど、患者側からみた当時の状況が掲載されています。高群逸枝の「娘巡礼記」も大正期の四国遍路記を通して、四国をさまようハンセン病患者の様子が描かれていて、当時の人々の患者に対するリアルな状況を知ることができます。
無知であることの恐ろしさを感じる😢
現代のコロナ騒動、進化してるのかなぁ?
色々な面で、未だに偏見は、無くならない!
心の狭さなのだろうか?
人間の本質
罪深いのは、収容を決めた時点で伝染の可能性がないことが医学的にわかっていたことです。
初代所長はそれを承知で国民の不安を利用して収容を先頭に立って進めたのです。
砂の器はそれらを明らかして公開するべきでうやむやにして改変すべきではありません。